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現経応用rp-5

Q.日本企業のグローバル化の歴史をまとめ、今後日本企業にとっての課題について、300~500文字で述べなさい。

A.

下書き

日本企業のグローバル化の歴史は輸出から直接投資に移行する4つのフェーズから成る。戦後から1970年代前半までの第一フェーズでは、先進諸国向け輸出中心であり、現地生産は輸出を補完するレベルであった。続いて1970年代後半から1984年までを第二フェーズと呼ぶ。重化学工業品を中心とする輸出品目の増加が日米貿易摩擦を引き起こし、打開策として北米への海外直接投資を増やした。次に、1985年から1989年までを第三フェーズと呼ぶ。貿易黒字状態が続き、貿易摩擦が多くの商品に発生した。最後に、1990年から現在までの第四フェーズでは、米国以外にも欧州・アジア向け輸出が増加した。今後の日本企業の課題は、いかに企業の価値連鎖活動を世界中に配置し、調整するかである。活動を集中させると、規模の経済性や習熟効果が得られるが、分散させると、個々の市場のニーズに対応でき、広範囲から多くを学習できる。集中化を進めることは分散を困難にするという相矛盾する関係にあるため、企業の活動や事業・製品の特質によって経営資源を配置し、調整する必要がある。

 

また、海外移転に伴う国内で雇用や技術が海外に流出する産業空洞化、また、進出先国のに適応することも重要である。

 

①第一フェーズ:戦後~1970年代前半まで

1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われたのは有名であるが、1950年代は、国内における生産能力が過剰になり始めた業界及び企業が、先進諸国受け輸出を開始した時期である。朝鮮戦争特需も追い風となった。そしてその結果、初めての日米貿易摩擦が繊維製品を中心に発生した。日本がGATT(多角的貿易交渉)に加盟したのもこの時期である。1960年代は鉄鋼製品、1970年代には自動車の輸出が盛んになる。1971年にはニクソンショック(固定相場制から変動相場制へ)による円高の進行が手伝い、わが国企業は輸出に代わる方法として、現地生産方式を模索するようになった。1973年の第一次オイルショックは、石油の輸入価格を一気に4倍に急騰させた。こうしたことも、エネルギーの安定供給を狙った海外直接投資を増加させた。なおこの時期におけるグローバル化は、あくまでも輸出中心であり、現地生産は輸出を補完する性格のものであった。

 

②第二フェーズ:1970年代後半~1984年まで

この時期は、日米貿易摩擦が注目を集め、問題となった時期である。輸出品は、繊維製品等の軽化学工業品から鉄鋼、カラーテレビ、自動車等の重化学工業品が中心になった。カラーテレビや自動車における日米貿易摩擦は熾烈を極め、わが国企業は1977年にはカラーテレビ輸出の自主規制を、1981年には自動車輸出の自己規制を行う程であった。こうした現状を打開すべく、第二フェーズにおけるわが国企業は、アメリカを中心とする北米エリアへの海外直接投資額を増やしていった。

③第三フェーズ:1985年~1989年まで

1985年のプラザ合意を経て、これまで1ドル250円前後で推移していた円相場は、89年代後半には120円台にまで高騰する。それでもなお輸出金額が輸入金額を大幅に上回る貿易黒字状態は続き、貿易摩擦が多くの商品に関して発生した。アメリカが、包括通商法(スーパー301条)を制定し、その適用をつらつかせながら強硬姿勢で交渉に臨んできたのもこの第三フェーズの時期である。

④第四フェーズ:1990年~現在

バブル経済崩壊、失われた十年、内需の低迷を補うべく輸出に活路を見出した。1991年~1994年における貿易黒字額は10兆円を超えた。アメリカよりも欧州向け、アジア向け

 

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